テナントが退去するとき、ビルオーナーや管理会社が直面する判断のひとつが「居抜きで次のテナントに引き渡すか、スケルトン戻し(原状回復)を求めるか」です。この選択は退去テナントの費用負担、空室期間の長さ、次のテナントの初期投資に直結し、数百万円単位で収支が変わることがあります。
店舗の原状回復費用ガイドでは業種別の費用相場と居抜き・スケルトンの概要を整理しましたが、本記事では「どちらを選ぶべきか」という判断フレームワークを深掘りします。退去テナント・ビルオーナー・次のテナント候補の三者の利害を整理したうえで、コスト比較、工期、契約書の確認ポイント、造作譲渡のスキームまでを解説します。
居抜きとスケルトン戻しの基本的な違い
居抜きとスケルトン戻しは、退去時に物件をどの状態で引き渡すかという選択です。
居抜きは、テナントが施した内装や設備をそのまま残して退去する方法です。厨房設備、カウンター、空調、配管、間仕切りなどが次のテナントに引き継がれます。退去テナントにとっては撤去費用が不要になり、次のテナントにとっては初期投資を抑えて開業できるメリットがあります。
スケルトン戻しは、内装・設備をすべて撤去し、コンクリート打ちっぱなし(躯体のみ)の状態に復旧する方法です。賃貸借契約で定められた「原状回復義務」は、多くの事業用物件でこのスケルトン戻しを指します。次のテナントは業種や内装デザインを自由に設計できますが、退去テナントの費用負担は大きくなります。
ここで重要なのは、「居抜き」は原状回復義務の免除を意味するわけではないという点です。契約上の原状回復義務はあくまでスケルトン戻しとして残っており、居抜きで退去するには貸主の承諾が必要です。承諾なく設備を残置して退去した場合、契約違反として損害賠償を請求されるリスクがあります(東京地裁平成29年3月27日判決など、承諾のない残置物に対する撤去費用の請求を認めた判例があります)。
コスト比較 — 数百万円の差が生まれる構造
居抜きとスケルトン戻しのコスト差を、店舗30坪の飲食店を例に整理します。
スケルトン戻しの場合、店舗の原状回復費用ガイドで整理したとおり、厨房設備ありの飲食店で坪単価10万〜15万円が相場です。30坪であれば300万〜450万円。この費用は退去テナントが負担します。加えて、工事期間中の賃料(多くの契約では原状回復完了まで賃料発生)が1〜2ヶ月分加わるため、実質的な退去コストはさらに膨らみます。
居抜きの場合、退去テナントの撤去費用はゼロまたは最小限に抑えられます。残置する設備のクリーニングや軽微な補修に数十万円かかるケースはありますが、スケルトン戻しと比較すると桁が異なります。一方で、次のテナントの開業コストにも影響します。スケルトンから内装を新設する場合の坪単価が30万〜60万円程度(飲食店)であるのに対し、居抜きであれば追加の改装費用が10万〜20万円程度で済むこともあります。
ビルオーナーの視点では、もうひとつの数字が重要です。空室期間中の逸失賃料です。スケルトン戻し工事に1〜2ヶ月、次のテナント募集に2〜6ヶ月、新テナントの内装工事に1〜3ヶ月。合計で4〜11ヶ月の空室期間が発生し得ます。坪単価2万円、30坪の物件であれば月額60万円、半年で360万円の逸失賃料になります。居抜きで後継テナントが見つかれば、この空室期間を大幅に短縮できます。
判断フレームワーク — 4つの軸で評価する
居抜きとスケルトン戻しの選択は、単純にコストだけで決まるものではありません。以下の4つの軸で総合的に判断します。
1つ目は次テナントの見込み。退去テナントと同業種の後継候補がすでにいる、または立地的に同業種の需要が高い場合は、居抜きが有利です。飲食店街で飲食店が退去する場合や、美容室が集まるエリアでの退去がこれに当たります。逆に、異業種を含めて幅広くテナントを募集したい場合や、現テナントの業態が特殊で汎用性がない場合は、スケルトン戻しのほうが募集しやすくなります。
2つ目は設備の状態。居抜きで引き渡す設備が老朽化していたり、衛生基準を満たさない状態であれば、次のテナントがそのまま使えず、結局は撤去・更新が必要になります。居抜きで引き渡したのに次のテナントがすぐに退去する、というパターンは設備の状態が原因であることが少なくありません。引き渡す設備のリスト(造作一覧)と動作確認が前提です。
3つ目は契約書の原状回復条項。契約でスケルトン戻しが明記されている場合、居抜きで退去するには貸主との合意(原状回復義務の免除または変更)が必要です。この合意なしに居抜き退去を進めると、退去後に原状回復費用を請求される事態になりかねません。契約条項の確認と合意形成のプロセスについては後述します。
4つ目はビルの資産価値への影響。テナントの内装が残った状態が長期化すると、ビルの美観や他テナントへの印象に影響する場合があります。オフィスビルでは居抜き退去は比較的少なく、スケルトン戻しが標準です(オフィス原状回復の実務ガイド参照)。商業施設や路面店では居抜きが選択肢に入りやすい傾向があります。
契約書の原状回復条項と居抜き退去の合意形成
事業用賃貸借契約の原状回復条項は、住居用と異なり、テナントの義務範囲が広く設定されています。国交省ガイドラインは住居用を主な対象としており、事業用物件では契約書の特約が優先されるのが判例上の原則です。
原状回復条項で確認すべきポイントを整理します。
「原状」の定義がどこまで具体的に記載されているか。「スケルトン状態に復旧」と明記されている場合と、「入居前の状態に戻す」という抽象的な表現の場合では、居抜き退去の交渉余地が異なります。抽象的な表現であれば、入居時の状態がスケルトンでなかった(前テナントの内装が残っていた)場合に、居抜きでの退去を主張できる可能性があります。
指定業者条項の有無。原状回復工事をビルオーナー指定の業者で行うよう定められている場合、居抜き退去であっても残置設備の撤去が必要になったときに指定業者を使う義務が生じることがあります。業者選びの基本基準で触れた指定業者制度の論点は、居抜き退去の場面でも関わってきます。
居抜き退去の合意を取り付けるプロセスは、退去通知の段階から始まります。退去テナントが「居抜きで退去したい」と申し出た場合、ビルオーナーとしては次テナントの見込みと設備の状態を評価したうえで、承諾するかどうかを判断します。承諾する場合は、原状回復義務の免除(または一部免除)を書面で合意しておくことが不可欠です。口頭の了承だけでは、後日トラブルになるリスクがあります。
合意書に盛り込むべき事項は、残置する設備・造作のリスト、設備の現状(動作確認結果)、原状回復義務の免除範囲、残置設備に不具合があった場合の責任分担、合意が解除される条件(次テナントが一定期間内に決まらなかった場合など)です。
居抜き退去時の税務処理と注意点
居抜き退去で造作や設備を有償譲渡する場合、原状回復費用の削減だけでなく、税務処理も同時に確認します。退去テナントが個人事業主で、営業用に使っていた厨房機器や内装を売却する場合、所得区分は資産の性質や取引の継続性によって事業所得、雑所得、譲渡所得の検討が必要です。法人であれば、譲渡対価と帳簿価額との差額を譲渡損益として処理するのが基本です。金額が小さくても、造作譲渡契約書、請求書、入金記録、固定資産台帳を残しておきます。
消費税も見落としやすい論点です。課税事業者が事業として使っていた資産を譲渡する場合、造作譲渡対価が消費税の課税対象になることがあります。免税事業者か課税事業者か、インボイス登録の有無、譲渡対象が内装一式なのか、厨房機器や什器ごとに分かれるのかで処理が変わります。契約書では、譲渡価格が税込か税抜かを明記しないと、次テナントとの精算で揉めやすくなります。
スケルトン戻しに切り替えて設備を撤去する場合は、退去テナント側で固定資産の除却損を計上できる余地があります。居抜きで一部だけ譲渡し、残りを廃棄する場合は、譲渡資産、廃棄資産、残置を認められた資産を分けて台帳を更新します。反対に、譲受側の次テナントは、取得した造作や設備を固定資産として計上し、耐用年数に応じて減価償却します。国税庁は他人の建物に対する内部造作について、建物附属設備に該当するものを除き、建物に含めて考える取扱いを示しています。
税務処理の相談は、譲渡代金を決めた後では遅くなることがあります。退去通知を出し、居抜き仲介業者や次テナント候補と条件交渉を始める段階で、顧問税理士へ造作一覧、取得時の請求書、固定資産台帳、譲渡予定価格を共有してください。確定申告や法人決算では、譲渡損益、除却損、消費税、減価償却の処理が連動するため、契約書の文言と会計処理を合わせておくことが重要です。
造作譲渡のスキーム
居抜き退去の実務で鍵になるのが、造作譲渡(ぞうさくじょうと)です。退去テナントが施した内装や設備を、次のテナントに有償または無償で譲り渡す契約を指します。
造作譲渡は、退去テナントと次のテナントの二者間で行う契約です。ビルオーナーは造作譲渡契約の当事者にはなりませんが、居抜き退去を承諾する立場として関与します。造作譲渡が成立すれば、退去テナントは設備投資の一部を回収でき、次のテナントは新規に設備を導入するよりも安く開業できるため、三者にとってメリットが生まれます。
造作譲渡の対象になる主な項目は、厨房設備(冷蔵庫・コンロ・シンク・食洗機)、空調設備、カウンター・テーブル・イスなどの家具、照明器具、看板・サイン、配管・ダクト類などです。造作譲渡契約書には、譲渡対象のリスト、各設備の状態(使用年数・動作状況)、譲渡価格、引き渡し日、瑕疵担保(かしたんぽ)の有無を明記します。
譲渡価格の相場に統一的な基準はありません。新品購入価格の10〜30%程度で取引されることが多いですが、設備の使用年数や状態、次のテナントの交渉力によって幅があります。厨房設備一式で50万〜200万円程度の取引は飲食店では珍しくありません。
ビルオーナーが注意すべき点として、造作譲渡契約で次のテナントに引き渡した設備が、その後のテナント退去時にも原状回復の論点になることがあります。次のテナントとの賃貸借契約で、造作譲渡で引き継いだ設備の扱いを明確にしておかないと、二重の原状回復問題が発生し得ます。
居抜き仲介業者の活用
退去テナントが自力で後継テナントを探すのは現実的ではない場合が多く、居抜き仲介業者を活用するケースが増えています。
居抜き仲介業者は、退去テナントの物件情報を居抜き物件を探しているテナント候補に紹介し、造作譲渡の交渉をサポートする事業者です。飲食店に特化した業者、オフィスに特化した業者、エリア特化型の業者など、得意領域が分かれています。
仲介手数料は、造作譲渡価格の10〜20%程度、または固定報酬(30万〜50万円程度)が一般的です。退去テナント側が負担するケースが多いですが、スケルトン戻しの費用(300万〜450万円)と比較すれば、居抜き仲介の費用を差し引いても大幅にコストを抑えられる計算です。
ビルオーナーとしては、居抜き仲介業者の活用を退去テナントに提案することも選択肢のひとつです。テナントが「居抜きで退去したいが後継テナントのあてがない」という場合、仲介業者を通じて後継テナントが見つかれば、空室期間の短縮というビルオーナー側のメリットにもつながります。ただし、仲介業者が紹介するテナント候補の与信や業種がビルの方針に合致するかは、ビルオーナーが判断する必要があります。
業種別の居抜き需要と成約率
居抜きの成立しやすさは、業種ごとの設備流用率で大きく変わります。ここでいう成約率は、公開されている居抜き物件サイトの成約事例や専門仲介の市場感を踏まえた実務上の目安であり、立地、賃料、譲渡価格、設備状態によって上下します。ビルオーナーは「居抜きなら必ず決まる」と考えるのではなく、同業種の候補者がどれだけ設備をそのまま使えるかを見ます。
飲食店は、居抜き需要が最も読みやすい業種です。厨房、排気ダクト、グリストラップ、客席造作を流用できるため、同系統の飲食店なら成約率60〜70%を見込める案件があります。特にカフェ、居酒屋、ラーメン店、焼肉店などは設備仕様が成否を左右します。査定では、厨房機器の年式、排気能力、ガス容量、グリストラップの清掃状態、保健所手続きへの影響を確認します。
美容室やサロンは、シャンプー台、給排水、ミラー、セット面、個室ブースの流用価値が高く、成約率50〜60%が目安です。シャンプー台の台数、給湯能力、床上げ配管の状態、電気容量が合えば、次テナントは初期投資を大きく抑えられます。物販店は業種特化度が低く、成約率30〜50%程度に下がります。棚、照明、レジカウンターは使えても、ブランドごとの内装方針に合わなければ撤去前提になりやすいためです。
クリニックや医院は、医療設備の引継ぎ条件が複雑で、成約率40〜60%程度を慎重に見ます。診療科目が合うか、レントゲン室や給排水、待合導線、バリアフリー対応が現行基準に合うかを確認します。オフィスは間仕切り、会議室、受付、OAフロア、什器の汎用性が高ければ成約率50〜70%を見込めます。ハイッテのようなオフィス居抜きサービスでは、移転前から後継テナント候補を探すことで、退去工事と募集期間を圧縮しやすくなります。
譲渡相場は、新品価格ではなく「次テナントが追加投資をどれだけ減らせるか」で決まります。飲食店は厨房設備一式、美容室はシャンプー台と給排水、オフィスは会議室・什器・ネットワーク配線が査定の中心です。高く売りたい場合ほど、動作確認表、保守履歴、写真、図面、譲渡対象外リストを早めに整える必要があります。
工期とスケジュール — 退去から次テナント入居までの流れ
スケルトン戻しと居抜きでは、退去から次のテナントが入居するまでのスケジュールが大きく異なります。
スケルトン戻しの場合、退去通知から退去日まで3〜6ヶ月、原状回復工事に2〜8週間、テナント募集に1〜6ヶ月、次テナントの内装工事に1〜3ヶ月。合計で7ヶ月〜1年以上かかることがあります。
居抜きの場合、造作譲渡の交渉を退去通知と並行して進めれば、退去日と次テナントの入居日を近接させ、空室期間を数日〜数週間に抑えることも可能です。
この工期差はビルオーナーにとって逸失賃料に直結します。前述のとおり、月額60万円の賃料であれば空室期間を半年短縮するだけで360万円の差が生まれます。
居抜きが不適切なケース
居抜きはコストと工期の面で有利に見えますが、避けるべきケースもあります。
設備の老朽化が進んでいる場合。次のテナントが入居後すぐに故障やトラブルに見舞われ、「設備の修繕費がかさんで結局高くついた」という事態になりかねません。
前テナントの業態が特殊で、次テナントの募集対象が極端に狭まる場合。焼肉店専用のダクトやラーメン店特有の換気設備は、同業態以外のテナントにはかえって撤去の手間になります。
建物の大規模修繕やバリューアップ工事を予定している場合は、スケルトン戻しのうえで計画的に工事を進めるほうが合理的です。また、消防法や建築基準法の改正で現在の設備が基準を満たさなくなっている場合も、居抜きで引き渡した設備では次のテナントが営業許可を取得できないリスクがあります。
判断チェックリスト
退去通知を受けた段階で、以下の項目を確認し、居抜きが現実的かどうかを判断します。
契約面 — 原状回復条項でスケルトン戻しが義務付けられているか。居抜き退去について貸主の書面による承諾は取れるか。造作譲渡契約書の準備はできているか。
設備面 — 残置する設備のリストは作成したか。各設備の動作確認と使用年数の確認は完了しているか。消防法・建築基準法の現行基準を満たしているか。
テナント誘致面 — 後継テナントの候補は見込めるか。居抜き仲介業者の活用は検討したか。ビルの方針(業種制限・グレード維持)と合致するか。
コスト面 — スケルトン戻しの見積もりは取得したか。空室期間の逸失賃料は試算したか。造作譲渡で退去テナントが回収できる金額は見込めるか。
判断に迷う場合は、スケルトン戻しの見積もりと居抜き仲介業者からの市場フィードバックの双方を取得したうえで比較検討してください。
出典・参考文献
- 国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」案内ページ: https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk3_000020.html
- 国土交通省 ガイドライン本文PDF: https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/torikumi/honbun2.pdf
- 民法(e-Gov 第621条 賃借人の原状回復義務): https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 借地借家法(e-Gov): https://laws.e-gov.go.jp/law/403AC0000000090
- 国民生活センター 賃貸住宅退去時のトラブル相談事例(2021年7月公表): https://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20210701_1.html
- ハイッテ: https://hyte.jp/
- 店舗そのままオークション: https://www.sonomama.net/
- 国税庁 タックスアンサー: https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/
- 国税庁「No.5406 他人の建物に対する造作の耐用年数」: https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hojin/5406_qa.htm
- 国税庁「No.2100 減価償却のあらまし」: https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/2100.htm
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